今日の日記

2002年5月6日
久し振りに歩いたら靴ズレした。大したことないけど。
はっきり言って、笑った。

今日の日記

2002年4月10日
僕の生まれは地球と呼ばれる惑星上のどこか。僕が生まれたとき僕の周りには人間がたくさんいた。もちろんこれはあとになってわかったことでそのときの僕は泣くしか能のないただの赤子だった。目も見えていたか耳も聞こえていたかどうか怪しい。更にあとになってわかったことだが、たくさんいたように思えた人間も、その人間の定めた行政区分の中ではその区域はかなり人間の数の少ないほうだったらしい。もちろん赤子には関係のないこと。自分の面倒を見てくれる必要最低限度の人間さえいればそれでいい。その周りにいた人間はみな日本語を使っていた。自然、僕もそのうち日本語を使うようになった。ほかの言語を使おうとしたこともあったが、その試みは未だにうまくいっていない。生まれたときもきっと日本語で泣いたのだろうと思う。「おぎゃあ」と。

今日の日記

2002年4月6日
僕の名は日高加計。これは偽名で本名は別にある。なぜ本名を名乗らないかというなら、プライバシとかセキュリティとか何やらよさげな言い方はすぐに見つかるが、一番わかりやすい説明は、恥ずかしいから、というのが最も妥当なところだと思う。

今日の日記

2002年4月4日
自分のことを書こうと思う。
じゃあ今までは書いてなかったのかと思われる向きもあるかもしれないが、その通り、書いてなかったのである。
書いたとしても当たり障りの無いどうでもいいことしか書いていなかった。
今後は積極的に書いてみようと思う。
何故今更そんな風に思ったかというと、書くことがわからなくなってしまったからである。
何を書いて良いやらさっぱり見当もつかなくなって迷宮に嵌りこんだ気分になってしまったのである。
こういうときは原点に立ち戻るのが良い。
日記を書き、更にそれをWEB上で公開しているのは自分のことを他の誰かに伝えたいという欲求から来るものだろう。
つまり自己紹介である。
自己紹介から始めれば良いのだ。
自分の文章力ではそれも断片的なものに留まりそうな気がするが、なるようになってしまえば良かろうというような心積もりでいる。
そもそも今までどうしてそれをやろうとしなかったかといえば、自分のことをすっかり知られてしまうことに対する不安があったからにほかなるまい。
隅々まで見られてしまいそうな気恥ずかしさがあったように思う。
それが昂じて必要以上に秘密主義に走ってしまう。
他人から見ればこれはいけすかない奴と見えることだろう。
なんの為にWEB日記を持っているのかと指摘されそうな状態である。
他人に自分のことが知られたくないならWEB日記など持たぬがよろしい。100円の大学ノートを買ってきて引き出しの中にしまいこんでおれば事足りる。
なるほど。
なんだか随分と偉そうに大仰なことを言っているが恐らくは実際はそれほど大したことにはなるまい。
幾ばくかの虚飾が入り込むことは避け得ないであろう。そもそもが文章なんてもの自体が多かれ少なかれ虚飾に塗れている。
つまりは今までと同じように。
とりあえず書くことがわからなくなったら自己紹介をする。
うむ、いい考えだ。

今日の日記

2002年3月28日
日記ってのは毎日書いたほうがいいに決まってる。
だから日記と云うのだ。
そりゃそうなんだが。
俺には事自分に関する限りどうにも価値を認められない、見出せない、或いはそうしたくないという質がある。
この日記もそう。
正か負かいずれの慈力を持つかと云えば明らかに負だろう。
俺にはそうとしか思えない。
ではなぜこうして今性懲りも無く書こうとしているのか。
それは、もしかしたら今度こそ正の価値を持つ財としての某かを遺せるかもしれないという期待、期待と云うよりも願掛け程度のもの、虚しすぎる当て込みにしか過ぎないものが胸内のどこかしらに持っているからだろう。
その願掛けが叶ったことがかつてあったような気はしない。
以前からこうした書記は何度も何度も繰り返してきたがその度に破棄してきた。
気に入らないからだ。
そういう行為そのものが俺という人間の卑小さを物語っていると言える。
破棄したい。
衝動に駆られる。
この俺の存在をすらも。
いつか本当にそうしてしまうかもしれない。

今日の日記

2002年3月12日
俺はいま凶悪な気分に染まっている。
恐ろしく凶暴な性が体面に現出している。
周りのもの皆凡て癇に障る。
何もかもがイライラする。
触れるものみな凡て破壊し尽くしてしまいそうだ。
寄って来る人間皆凡て殺害してしまいそうだ。
こういう気分になることは珍しいことじゃない。
忘れた頃にやって来る。
予測もつかないし止めようもない。
こういう時はなにをしてもしょうがない。
さっさと布団を被って眠ってしまうに限る。
なんでそうなったかって?
さあな、多分カルシウムが足りないんだろ。

今日の日記

2002年3月1日
忘れてた。
今日は3月1日。
毎年風邪をひく日であった。
気づいていれば前日に薬を呑むとかしてたろうが。
いやそれより毎年計ったようにこの日に風邪をひくこの不思議。
午前中から貧血のような感じがしてフラフラしていたが、これは空腹のせいだろうと思っていた。
午後になると頭痛が始まった。額に触ると熱い。
ここでやっと風邪をひいたなと自覚する。
虚脱感がある。座り込むともう一度立ち上がるのに苦労する。
病気のときというのはいつもそうだが強烈な不安に襲われる。もう治らないんじゃないか、ずっと悪化する一方なんじゃないか、これが原因で死ぬんじゃないか、等等。体力が落ちてるせいか弱気になるばかりで情けないったらありゃしない。たかが風邪で死ぬことはないだろうってことはわかってる。しかし身体が言うことを利かないのは事実。惨めさが増す。
そのくせ治ったらそんなふうに悩んだことなんかすっかり忘れちまって、そしてまた風邪をひいたときにウダウダと同じぶつくさを繰り返す。ああああ。
午後の仕事はなるべく動かないようにダラダラとやっていた。よく怪我しなかったもんだ。
明日には治ってほしいんだが・・・・・今日は早く寝るべきだろうね。



今日の日記

2002年2月23日
ついに花粉症が始まった。
1日中鼻がグズグズ言っててくしゃみも断続的に発生する。鼻をかんでもまだムズ痒くすぐ鼻水が出てくる。ティッシュを手放せない。ずっと鼻をかんでると鼻が荒れて痛くなってくる。これが5月までずっと続くのである。
地獄である。
花粉症というものが世に出回ったのは10年ほどくらい前ではないかと思う。当時はまだ新しい病気と言うことでなんとなくススンでるみたいな感じで考えていたものである。
「都会だと病気までカッコいいのだなぁ」などと拙くも浅墓に考えていたのである。
まさか当の自分がその症状に罹ってしまうなど考えてもみなかったのである。しかもそれがこんなにツラいものだったとは。
人間勝手な憶測やら品評やらは禁物であるという生々しい教訓である。
まあどうだっていいが。
とにかくこの鼻水なんとかしてくれないか。
目も痒いし。



今日の日記

2002年2月20日
今日も寒くて目が覚めた。
最近はそれでも少しはマシになったかもしれないがまだまだ布団から抜け出るのに抵抗がある。
寒いとなんにもできないね。
指が悴むし身体も痺れてくるし思考もなんやら寒い寒いだけになってしまって余裕なんかなくなる。
布団かぶって丸くなっているよりしょうがない。
いや別に日記書かない言い訳じゃないけど。
南の国に住みたいなと思うこともある。
でも移住したりなんかしないよ。
俺はここがそのうち暖かくなることを知っているから。
焦らず待っていればそれでいい。
シベリアに住む人はどんなふうに考えてるんだろう?
やっぱり暖かい場所に住みたいと思うんだろうか。
それとも短い夏をひたすら待って、その夏のためだけに寒く長く辛い一年を過ごしているのだろうか。
仮に後者だとして。
俺たちと比べてどっちが人間らしい暮らしができると思う?
喉が痛い。どうやら風邪ひいちまったみたいだな。

今日の日記

2002年2月14日
とにかく寒い。
今日は一日身体からシビレが抜けなかった。
いま風呂に入って漸く人心地ついたような次第。
これは気温のせいばかりでもないような気がする。
やっぱり食ってないから体力が落ちてるのだろうか。
それとも脂肪が抜けたからか。
どちらともわからんが食わなければ体力がなくなるのは自明の理。
ともかくまあ風邪には気をつけましょう。
と言いつついくら気を付けていてもひいてしまうのが風邪というもの。
しかも俺の場合ナゼか3月になると決まって風邪をひく。
毎年3月1日には申し合わせたように寝込んでいるからむしろ笑える。
3月まではまだしばらく日にちはあるけどね。
体力は温存しておくに如くはない。
来週か再来週あたりからちゃんと食べるようにしましょう。
今日はまだ食べないけどね。

今日の日記

2002年2月13日
目が覚めたら時計は7:43
マジかよ。
顔を洗うのは省略してすぐに出社。会社までは30分で着くので8時半の始業にはじゅうぶん間に合う。気分的にも余裕。タバコを吸う暇がないのは痛いけどな。
仕事の合間に作業所で顔を洗う。人に見られないように当たりを見計らう。別に見られたってどうってことはないがなんか引け目を感じてしまうもんだ。思ったほど水は冷たくなかった。作業所は実験の都合でここしばらくずっと暖房を終夜運転してる。そのせいかもしれない。
加工室は暖房はないが閉鎖棟なので意外に暖かい。しかし隙間風が気になる。気にしなければいい話だ。まったりと作業は進む。
接着剤を塗るタイミングを間違えた。変な形で固まってしまい、カッターで削り取ってやり直す。無駄な時間を使ってしまったが分刻みのスケジュールというわけでもない。こういうところが生産労働とは異なり具合がいい。まったりと仕上げた。
昼飯。食ったあとは図書室でまったりと過ごす。1時間で読める量は高が知れてるが時間はいくらでもある。1冊半年かけて読むくらいの気持ちでちょうどいい。まったりと読むのがいいのだ。
午後から試料作成。終業までに完成させればいい。まったりとやろう。
そのあと試験体の解体があったがこれは明日中にやればいいとさ。適当に切り上げて終わり。
今日もまったりだった。明日もまったり行きたいねえ。

今日の日記

2002年2月12日
とにかく寒い。
朝起きたらひどい頭痛。
頭を触ってみたらびっくりするほど冷たかった。
油断すると危ない。今夜からは頭にタオルを巻いて寝よう。
胸や喉に異常はないのでどうやら風邪ではない様子。しかめっ面で出勤。会った人が怖がるような形相だったろう。
午前中はずっと頭痛に悩まされたが次第に楽になる。
薬を飲もうとしたがやめた。飲まないならそれに越したことはない。
風邪をひかなかったのは幸いだったが来月は恐怖の3月、花粉症の季節が始まる。
なんとかならんもんかね、あれは・・・・・・

今日の日記

2002年2月11日
もうすでに金曜日の話なのだが。
「笑っていいとも」を見る。曜日定例のコーナ。4〜5歳くらいの幼児を3人並べてタレント連中がその前でジェスチャをやりそれを当てさせるクイズという趣向。
正解したらご褒美としてお菓子がもらえるらしく、1問ごとにポンと子供に手渡される。
が、
お菓子を持っているのは端っこの一人だけであとの二人は手ぶら。
その後もその端っこの子供は調子よく次々と正解を繰り出してその手元にみるみるお菓子の山が積み上げられる。
不図思った。
あとの二人はこの状況をどう見ているのか。
相当に不思議な事態が進行しているように感じるのではないか。
「私だって、僕だって、お菓子は欲しいのに、どうしてこの子ばっかりもらえるの?」
大人は当たり前のように、何の気なしに「正解したらお菓子がもらえますよ〜」などとおざなりな調子で言ってみせる。そのことになんの疑念もない。大人はいままでずっとそういう「ルール」で生活してきたのだから。謂わば常識の範疇。
しかし子供には、隣の子と自分との違いに見当をつけられない。違いがわかったにせよ、なぜそれがお菓子の数の差に繋がるのかはわからない。或いはこれは大人にもわかってないかもしれないが。
ここで子供は初めて、人間には格差がある、ということを知ることになる。
他人と自分とがどう違うのか、子供はそれまで考えたこともなかったろう。最低限わかるのは男と女の違いくらい。大人のほうでも、みんな同じに、平等に扱ってきたことだろう。現在の教育では当然そうしているはずだから。
だから、隣の子がお菓子をもらえるなら、自分ももらえなければおかしいのだ。
違い、ということではなく、個々の特長、ということならわかるだろう。あの子は一人で手早く着替えられる。あの子はかけっこが速い。あの子は腕相撲が強い。あの子はあやとりが上手。あの子はお絵かきがうまい。あの子は踊ったり歌ったりするのが好き、などなど。
その中でも「ものをよく知っている」という特長が、大人には認められるものであるらしい・・・・・少なくともこの場では。しかもそれがお菓子をもらえる重要な条件になっているとは!
こうして子供は社会の中で育って行くうちに、大人にほめられるような「重要な」特長をのみ選択し、あとのものは捨てて行く。木登りが上手とか、キレイな石を集めているとか、そういったことばかりをしていても大人は認めてはくれない。
重要な特長を獲得することが、社会で上に上がるためには大切なことなのだ・・・・・・
「うんと勉強してエライ人になりましょう」
「たくさん練習してオリンピックで金メダルをとりましょう」
「真面目に働いて一流企業の社長になりましょう」
子供は成長し、大人に信じ込まされた道をひたすら進み続ける。なぜその道を行くのか疑問を感じることもなく。
たまに他人からそういう質問を受けることもあって、「好きだから」とか「これが自分の人生そのものだから」とか言ってるが、ウソだね。
それみなすべて「お菓子をもらうため」なのだ。
お菓子をたくさん持っている子のほうがエライのだ。だから頑張ってたくさんお菓子をもらおうとするのだ。誰も彼も。隣の子よりもたくさんお菓子が欲しい、僕も、私も、この子も、あの子も、みんな、みんな。嗚呼・・・・・・・

「たかが人よりモノを知ってるだけでお菓子がもらえるなんて、おかしいじゃない?」
そう主張する子供が将来出現するかもしれない。
出現したら、おもしろいかもしれないね。

今日の日記

2002年2月6日
不本意にもダイエット中である。
ダイエットなどとご大層には言うが単に晩飯を食べないだけである。
種を明かしてしまえば要するに金がないのである。
一銭もないというわけではない、財布にはまだ500円ほどは残っている。
更に言えば銀行には向こう一ヶ月ほど贅沢三昧な暮らしができそうな程度の預金はある。
いや、贅沢といっても勿論限度はあるが。
どうしても苦しくなれば銀行に行っていくばくかの金を降ろしてくれば万事解決なのである。
金がないなどと卑屈にかぶせた虚勢を張ることもない。
なにをもってして金がないかというとそれは予め決してあった今月分の生活費のことなのである。
これは自分で決めたものであるからして破ったところで誰に咎められるというものでもない。
しかしそれでは喜んで破りましょうという心境に成り代われるものでもない。
葛藤なのである。
いや葛藤というのとは違うか。
敢えて言うなら葛藤しているのは腹の虫と自律の心である。
丁々発止の鬩ぎ合いなのである。
それほど大げさなものでもない。
本当にイザというくらいヤバくなったら逃げる手段も場所も前述のようにちゃんと控えているのである。
電波少年と同じである。
とりあえずイザというときになるまでは続行するつもりではある。
いまのところ自律心のほうが優っているのである。
と言っても給料日までの話だけどな。

今日の日記

2002年2月3日
俺は何者だろうか。
一つじっくり考えてみよう。
客観的に観察することも必要だろうな。
まず行動から考察してみるのが入りとしては適当かもしれない。
これも帰納法と言っていいんだろうか。

今日は7時前に目が覚めた。日曜は見たいTVがあるのでそういう意識がはたらいたんだろう。具体的に言えば仮面ライダーアギトの最終回。7時半から始まる。実際見たらどうということはなかったが見なかったら1日イヤな気分になったことだろう。だから結果的に見てよかったといえるかもしれない。8時からサンデーモーニングを見た。外相の問題を延々とやっている。関口宏は嫌いなのであんまり見たくないけど他の番組もつまらないし。8時半からおじゃ魔女ドレミを見る。今日から新シリーズらしいが途中で寝てしまった。目が覚めたらもう9時半でデジモンを見逃してしまった。今日は見ようと思ってたんだが。バンパイヤキッズはちゃんと見られたので少し気分を持ち直す。これでもう今朝はTVのノルマはこなしたのだがどうも布団から出る気にならない。暖かい状態で横になっていると身体が動かなくなるというのは誰でも共通かもしれないが、それ以上に起き上がってからやらねばならない煩雑なことを考えて億劫になってしまう。洗顔、掃除、洗濯など。また外出することも考えるが寒い中出て行くことを思うとまた憂鬱になる。しかたがないのでいいとも増刊号を横になったままだらだらと見る。それでも腹も減ったし身体の欲求にはなかなか逆らえないもので11時ごろようやく起き上がる。

ふぅ・・・・・・
これだけ書いて疲れてしまう。しかもくだらん駄文だし。
この程度が俺の限界ということなのだろう。
意気込みがけたたましいのは最初だけだ。
いつものように。

今日の日記

2002年2月1日
今日もなんにもできん。
もう週一って決めちまうかな。

今日の日記

2002年1月30日
うる星やつらのラムが好きだ。
しかし後期のラムは妙にこじんまりとかわいらしくなってしまい、あまり魅力的ではない。
平均的に可愛い娘になってしまっている。
それはそれで結構なことだと思うし大衆受けを考えるのも商売として否定されるものでもない。受け手として見やすいということも重要なファクターではある。
しかし、初期の頃の、トゲトゲしさ毒毒しさをたっぷりと含んだラムもじゅうぶんに(というかむしろ俺にはそちらのほうが)魅力的だったと思うのだ。
いつ弾け飛んでしまうやらわからない危険な怪しさを、初期のラムは持っている。
しかしその方向のままでは連載作品としては短命に終わってしまった可能性もあり、難しいところではある。
大方のキャラクタが出揃ったあたりからラムの印象は柔らかくなり始めたようで、文字通り薄められてしまったという感がある。
思い切り端的な言い方をすれば、あたるの本棚に筒井康隆が並んでいた頃のラムが一番好きだ。
権利の問題とかなんやらあったのかもしれぬが、いつからかあたるの本棚には少年サンデー以外見えなくなってしまった。ま、それはいい。
それでも後期のほうでもラムの抑圧された(?)性格はところどころに顔を覗かせていて、一例としては、ランの
「お前そのガチャガチャした性格なんとかならんのかいっ!!」
というセリフなど、恐らくは高橋氏本人の本音などが垣間見えて興味深い。
高橋氏も当初はラムとあたるを恋仲にすることなど考えてはいなかったようで、最初のラムの話が終わった次の回ではあっさりラムを捨てて悪魔なる別のキャラを出してメインにすえている。多分このように毎回個性的なキャラクタを次々と登場させることが当初のこの作品の方向の目論見だったのではないか。
ラムは、主人公あたるを引き立たせるための味の濃い付け合せというポジションにいたのだ。少なくとも最初は。
編集の意向だったことはじゅうぶんに考えられるが、悪魔の次の回で強引とも呼べるやりかたでラムは呼び戻され、そのままほとんど主人公のような位置に居座ってしまった。
ラムがいなかったらこの話はどうなっていったのだろう、と考えることも面白いと思うのだが、高橋氏の考えはどうだったのだろう。
あたるとしのぶが様々な邪魔者に圧迫されつつも不器用に紡がれるラブストーリが、綿々と語られていくはずだったのだろうか。
関係ないが、筒井康隆のとある短編にはしのぶという魅力的な女性が登場する。いまのところあたるという名の男は見当たらないが。

今日の日記

2002年1月27日
いいとも増刊号で誰が誰に似てるとかいう話で盛り上がってる。
芸能人が芸能人に似てることになんか意味があるんだろうかとも思うが。
柴田がヨシダ先生に間違えられたというのは誰かマンガ家だと思ったのではないだろうか。
まぁどうでもいいけど。
俺はずいぶん前に緒方拳に似てると言われたことがある。
自分じゃそういうふうには全然思えないから不思議なものではある。
俺は当時は自分は島崎俊郎に似てると思ってたが、他人に言わせるとまったく似てないんだと。
やっぱ意味がない話だろうね、こんなの。
いまの俺は誰に似てるんかな・・・・・・


俺は俺の顔が世界で一番嫌い。
俺は俺の声が世界で一番嫌い。
俺は醜い。


今日の日記

2002年1月26日
全然実感ないです。
本当にいいんでしょうか。
これじゃなんだか俺って普通の人みたいじゃない?

今日の日記

2002年1月21日
本を読むにしても時間と場所柄が大切で、面白い本なら自宅でも読めるが面白くない本は自宅では絶対に読めない。自宅はリラックスする場所であるから。やはり外に出てパブリックな場所に自分を晒さないとパブリックな行動ができない。読書がパブリックな行動というとおかしな感じがするが本を読む姿というのは人に落ち着いた印象を与える効果がありパブリックに使われることはじゅうぶん可能だ。少なくとも俺には。だからつまらない本は外で読む。図書館とか喫茶店とか。デパートの類のアミューズメントコーナでもいいがずっとそこに居座っていると逆に奇異の眼で見られる。ああいうところはやはり一時的に腰を置いておくだけの場所なのだろう。吉野家で粘れないのと同じ道理だ。喫茶店でも2時間以上は店員の目が辛い。図書館が一番いいのだが最近駐車場が有料になった。糞。近頃は川原に行って車の中で読んでいる。意外と具合はいい。昼間限定だけどな。

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